水俣で子供を生んでみた・育ててみた3:保育園編/石原明子

 子どもが1歳になったとき、私と娘は、娘の父親が住む宮城に移住した。コロナが始まった時と同時期であった。宮城と水俣を行き来しながらの生活で、宮城では、さくらさくらんぼ保育という自然保育の園と出会い、そこにお世話になっていた。一方で水俣では、どの園にお世話になれるか、空きがあるかなど、しばらく逡巡の時が続いた。

 今振り返っても、水俣には素晴らしい保育園がたくさんある。本当に。自然派の園から、学習熱心な園まで。自然派のお母さんたちが好むのは、はつの保育園、袋地区ではみどり保育園。子育てや発育に熱心な知見を持つ人はわかたけ保育園―ここの若園長の井上先生は本当に素晴らしい教育者。早期学習や体作りに関心のある人たちは、すずかけ保育園や中央保育園を選ぶようだ。他の園も、それぞれのファン層をもつ。

 我が家は、一時預かりも含めて四つの園にお世話になり、我が家が最終的にお世話になったのは、さわらびこども園(幼稚園)だった。ここは歴史が100年以上あり、キリスト教主義で「先生方が決して怒らない園」として、昔からの住民に深い信頼を得ている園だ。いろいろ逡巡したけれど、さわらびこども園でお世話になったことは、一生涯の幸せで、私は頭が上がらないと思っている。ただただ、愛にあふれる園であった。

 今時、××教育法などいろいろな主張がある中で、その意味ではさわらびこども園は特殊な教育理論を採用しているわけではない。しかし他の園と比べて思うのは、ここの先生方は、どの園よりも子供を心から愛して、保護者のことも心から愛してくれているということだった。毎日毎日、全身からあふれる笑顔で子供を迎えてくれて、保護者を迎えてくれて、帰るときには、一日で子供について素晴らしかったこと、できたことをたくさんたくさん保護者に報告してくれる。子育ての不安のある中で、そんなエンパワメントは、結果的に親子関係をポジティブなものとしてくれる。

 だから、毎学期の保護者会では卒園でもないのに、みんなありがたくて、保護者が感謝泣きする。そんな光景を毎年見てきた。

 特に我が家は子供が三歳のときに、大変な人生の危機があった。子どもの父親が病気で急逝したのだ。文字通り目の中に入れても痛くないほど、子どものことをべたかわいがりした夫に、病が見つかって、4週間での他界したのだが、それを三歳の娘と在宅で看取った。可愛がってくれていた父親の死。育児書的には、3歳は死がわかる年齢と分からない年齢の中間らしい。しかし娘は、3歳なりに感じとって、隣の部屋で父親が日々弱って死に近づくのを感じて、子どもなのに不眠症になっていた。子どもにとって、寝ることと死ぬことは同じ認識だという。

 宮城で娘の父親を看取り、私たちは水俣に戻ってきた。そのときに、先生方が「何があっても園の中では子供に安心を与えます。何があっても大丈夫、全力で支えます」という姿勢で私たちの危機を支えてくれた。このときは、本当に、先生たちがマザーテレサに見えた。

今娘は6歳になって、元気いっぱいの小学生だ。そして、6歳にして、命の大切さを不思議なくらい受け止めて深い哲学を語ることがある。さわらびの先生方の愛なしには、私たち親子の今はない。

Writer Akiko Ishihara
ライター/石原明子
東京生まれ。水俣で、娘を育ててながら、熊本大学で教員として働く。「対立や葛藤から未来を拓く」紛争解決学が専門で、水俣や福島の人々の葛藤と再生、そこから紡がれる未来への示唆の研究をしている。
Born in Tokyo. I am raising my daughter in Minamata, working as a teacher at Kumamoto University.
Opening Up the Future from Conflict and Conflict, specializing in conflict resolution studies.
Researching focuses on the conflicts and rebirths of the people of Minamata and Fukushima,
and the implications for the future that can be drawn from them.

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