
緒方正実さんの〈転回〉について/渡部純(エチカ福島)
水俣で出会った人々の多くが、人生の〈転回〉を経験していることに驚きます。それぞれの〈転回〉の仕方やきっかけ、経験はもちろんそれぞれに異なるものですが、ここではとりわけ今回の水俣巡検で印象に残った緒方正実さんの〈転回〉経験について、考えたことを中心に述べたいと思います。

2025年8月10日、正実さんとの4時間にわたるご講話と対話は、すべてにおいて衝撃的で、その一つひとつが考え込まされるものでした。祖父の福松さんの人望や正実さんへ注ぐ愛情に胸打たれる一方で、その福松さんが水俣病の劇症型に襲われ苦しまれた様、そして緒方家へのあらぬ差別を受けた経験には、聴く側の胸が痛みます。とりわけ、少年だった正実さんへの悪意のない差別の言葉を投げかける大人たちの姿には、これもまた人間の一つの姿なのであろう思いつつも、情けなくなりました。少年だった正実さんにとって、それがどれだけ怖かっただろうかと思わずにはいられません。
しかし、他方で優しくヤクルトを渡しながら正実さんを励ます大人の存在もいました。微かな救いだったかもしれませんが、捨てる神あれば拾う神あり。これが社会の実相なのでしょう。そのような存在が社会の中にわずかでもいるだけで救われる人がどれだけいるのか。とりわけ、正実さんが小学校時代の担任だった浜田先生に救われてきたというお話しには、同じ教師業を務める私としては励まされるとともに、自分にそのことがどれだけできているのだろうかと反省もさせられたものです。
「バスの中が怖くても、バスから降りたら優しい先生が待っているんだって。そういうふうに思って学校に来たんだと。大人になってからですね。気づかされたんです。誰にでもそうですけど、その時はですね、なかなか気づきませんね」
いつかきっと教え子たちにもわかってもらえるかもしれない。われわれの教師業とは、そんな当てにしないで期待することで日々が成り立っているわけですが、そのときの苦悩が事後的に意味づけられることで正実さんご自身も、そして浜田先生も報われたのではないかと思います。
それ以上に印象に残ったお話しは、やはり娘のななさんとのエピソードです。正実さんはご結婚されるまで、ご自身の水俣病のことについて家族には隠していたそうです。
「周りから、聞かれても魚を一匹も食べたことがないって嘘までついてました。赤ちゃんのときに魚を母ちゃんが食べさせたら吐いて吐いて熱が出たので、魚アレルギーだと言って食べさせなかったから、今も食べていない。水俣病とは関係がない。そんな大それた嘘をついていたんです。なぜつかなければならなかったのかというのは、これも大人になってから気づきました。私は自分の幸せを求めていたんだなと。人として生まれたんだから、誰だって幸せになりたいという願いの中で、いろんな努力をしているはずだと。私も人として生まれたんだから、幸せになりたいというので、水俣病になりたくなかったんだと。しかし、本当の幸せとは、水俣病から逃げることでもない嘘をつくことでもない。それで得た幸せは嘘の幸せだ。ただ、大人になったばかりのときはまだわかりません」
こうふり返る正実さんが水俣病に向き合う〈転回〉を経験するきっかけは、娘のななさんとのやりとりでした。幼い頃から教師を目指したいと話していたななさんに、正実さんは登校前に「先生の話はまず真剣に聞くこと」、「毎日いろいろと起きるけれども、その起きたことに対して逃げてはならん。誤魔化してはならん。人間として正直な気持ちになって、向かい合えば乗り越えられる」ということ、最後に「学習に励もうね」ということを必ず伝えて、「これを守れば絶対先生になれるよ」と言い続けてきたそうです。
やがて、ななさんが高校卒業を迎える時期に、突然、正実さんは彼女から「父さん、正直に生きなさいという毎日言ってた言葉がようやく意味がわかった。これから私が先生になったとき、多くの子どもたちと出会うかもしれない。そんなときに私の姿がどれだけ人として正直な姿に見えるかによって、出会う子どもたちがきっと正直になってくれる。これからも、正直に生きるからね」との話しをされたそうです。
正実さんはとても嬉しかったそうです。しかし、その直後でした。「ただね、お父さん、毎日毎日正直に生きなさいと言ってたお父さん、お父さんこそが自分に正直に生きてね」といわれたそうです。そのとき、正実さんは大きなショックを受け、それまで家族にも一切水俣病のことを話してこなかった自分自身のことを、深く見つめ直さざるを得なくなったそうです。
「考えてみれば、私が水俣病を差別していたんだというのは、あとあと気づいたんです。妹は胎児性患者で頑張って暮らしているのに、祖父は私を抱いてやがては、水俣病の急性期に劇症型であの世に旅立ってメッセージを残してくれたのに、私はただ単に嘘を言うばっかりだった。本当に悩み続けました」
このとき、自分が自分に正直ではなかったこと、つまり自分にとって自分自身が最も遠い存在だったということに、正実さんは気づかされたわけです。
「結果的に、私はじゃあどうするのか?もう本当に娘から人間として一番大切な部分を教えられたような気がして、ここで逃げてしまえば、私の人生は終わりだとまで思い込むような人生だったんです。よし、逃げないと覚悟を決めました。それまでに逃げ続けていた私が覚悟するまでは、言葉を変えれば、適切な言葉じゃないかもしれないけど、死そのものでした」
それまでの人生を「死」だったと認識した正実さんは、「逃げない」と覚悟を決め、そこから1995年の「政治解決」に自ら水俣病患者認定の申請をし、ご自身の水俣病闘争が始まったと言います。
この正実さんの〈転回〉経験は、ななさんの何気ない言葉によって引き起こされたことは疑いないことです。しかし、誰もがこうした経験ができるわけではないでしょう。一体、何がこの〈転回〉を可能にさせたのでしょうか。
質疑応答の際に、私は「なぜ、正実さん自身が自分に正直になれなかった時期に、「自分に正直に生きなさい」という言葉をもち得たのか?」と質問しました。それに対して正実さんは、自分に正直であることの大切さはわかっていたものの、それが自分自身に当てはめて考えられていなかったと答えて下さいました。誰でも「自分に正直であれ」という形式的な倫理を知りつつも、それが腑に落ちるためには、他者からの呼びかけによって自らが気づかされることが必要なのかもしれません。
あるいは、自分自身に気づくという経験は、それなりの闘いや苦悩を経ていなければたどり着けない境地であるのかもしれません。正実さんの場合、過酷な差別を経験してきたことがあることは既にふれました。そのことが、水俣病であることを誰にも知られたくないという行動をとらせたことも十分理解できます。しかし、「水俣病を隠す」という時点で、実は正実さん自身は、その疚しさに気づいていたのかもしれません。これを「それと知るとはなしに知っている」状態といえばいいでしょうか。これは「見て見ぬふり」ということとは、少し異なるものです。あまりの〈傷〉の深さから、無意識的にそこから目を逸らさざるを得なかったという方が正しいのではないでしょうか。ご自身の〈傷〉から目を背けつつも、その疚しさを「それとはなしに知っている」ことが、無意識的にせよ、ななさんへの教えとして正実さんの言葉に立ち現れたのかもしれません。言い換えれば、正実さんご自身が語られたというよりも、むしろ〈傷〉が「自分に正直であれ」と語らせたのではないでしょうか。
しかし、これらのことが条件として揃ったとしても、誰もが〈転回〉可能になるわけではないでしょう。目を逸らすには、逸らすだけの理由があります。小さくとも、波風立てられずに穏やかな生活を過ごす幸せというものもあります。水俣のみならず、広島、長崎の被爆者たちはそのことを経験したのではなかったでしょうか。そしてわれわれ原発事故後を生きる福島の人間もまた、その気持ちを十分理解できます。けれども、そうであるにもかかわらず、突如として過酷な経験を語り出す人々が、その中から現れることもまた事実です。どちらが良い悪いという問題ではありません。重要なことは、自分の中に大切にしたいことをもち得た人ならば、それに応答するために〈転回〉せざるを得ない事態が生まれるということでしょう。
「正実」という名は祖父・福松さんがつけられたそうです。その意味を正実さんはこうおっしゃっていました。
「この子はね、誰でもそうだけども、いろんな大きな問題にぶつかって、もう、それはそれは苦しい場面を背負うような気がしてたいね。これまでにないような大きな問題に出会う機会にね。そんな時にね、人は誰でも駆け引きをして、問題を乗り越えようとするんだけど、そうするとその駆け引きが、逆に、どんどんどんどん悪化して問題を大きくしてしまって、とうとうと問題解決にならずに、10年も20年も50年もかかってしまうんだ。だからね、最初からその問題と正直に向かい合うことが大切だから、この子には正しく実る子になってほしい。」
名は体を表すとも言いますが、その名の意味とご自身の過酷な経験を繋ぎ合わせて考えられたことも、正実さんの〈転回〉をもたらした一つの要素だったのでしょう。
最後に、ななさんから「お父さんこそが自分に正直に生きてね」と語られたとき、正実さんは、彼女に対して自分の水俣病のことを知ってて言ったのか聞けなかったそうです。
「知ってて言ったの?って聞きたいなと思ったけど、なかなかそこをですね、今でも聴いていないんですよ。あれから30年近くたつのかな、25年くらいかな。私はそれを聞くよりも聞かないで、そっと自分の中にですね、大切にしとったほうがいいと思うんですよ」
今でも正実さんが、ななさんの言葉の核心を聞かずに、自分の中で大切にしておく方がいいのはなぜなのか。それを知ることで、新たに気づかされることもあるのではないだろうか。だが、これは〈転回〉を経験した人にとっては、そこで出合った瞬間以上に大切なものはないということなのかもしれません。それまでの人生を結集/解体させられるような瞬間といえばよいでしょうか。その瞬間があったればこそ生き直せたということに、それ以上の理由や説明の言葉は不必要なのかもしれません。

冒頭でふれたように、正実さんに限らず、水俣は〈転回〉を経験した人に満ちた土地です。何がそうさせるのか。原発事故後を生きる福島の人々は、いまだ沈黙に支配されています。その言葉を奪われた土地を生きるものにとって、正実さんたちの〈転回〉経験は何度でも参照されてしかるべきでしょう。正実さんとの出会いに無限の感謝を述べたいと思います。ありがとうございました。
Writer Jun watabe (researcher in philosophy)
ライター/エチカ福島 渡部純(福島県立高等学校教諭/公民・倫理)
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