加賀田清子さんと出会う/斎藤純一

1. 「水俣に行こう」と思ったきっかけ

 2011年の東日本大震災に遭遇し、その後の原発の災害事故による多くの混乱、分断を目の当たりにして、今起きていることは何なのか、自分にできることは何かあるのかという思いを抱えていた。
 ある時、水俣にゆかりのある知人と会う機会があり、水俣と福島の類似性について話をしたことがあった。知人は、「相手(東電)は水俣(チッソ)から多くのことを学んでいる。我々も水俣から多くのことを学ばねばならない。」と言っていた。その後、震災関連の記事等を読むと、水俣について言及しているものが目に付くようになった。そうした状況の中で、一度水俣に行ってみたいという思いが強くなっていった。また一方で、水俣に対する興味が増すにつれ、石牟礼道子の『苦界浄土』にも関心が向き、再読するようになった。作中で描かれている不知火海の美しい情景や、トントン峠などの描写から、現地に行って実際に見てみたい、水俣の方々から話を伺いたい、単純に観光がしてみたいという思いを強く持つようになった。

2. 加賀田清子さんとの出会い

 水俣旅行を控えて、NHK「ETV特集・花を奉る 石牟礼道子の世界」(2012年)を観た。番組では、『苦界浄土』の登場人物のモデルになった方や、ゆかりのある人々に著者本人が合いに行くというものだった。『苦界浄土』には文学作品として優れた表現や描写が数多くあるが、杢太郎少年との出会いの場面は特に印象深い。「杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。」という会話があるが、番組では、著者が杢太郎少年のモデルとなった半永一光さんに明水園にて再会し、本人の前で朗読していた。石牟礼道子が「生きているうちに会えて良かった。」と言っていた場面が印象的だった。

 そこで、半永さんと同じく胎児性患者の加賀田清子さんが登場した。加賀田さんはうまく話せない胎児性患者の「代弁者」として、当時から現在も車いすの身で精力的に活動している。加賀田さんは「道子ちゃん頑張ってね。芝居書いてね。みんな応援してる。」という言葉をかけ、石牟礼は涙ながらに「励まされた」と言っていた。加賀田さんの存在を知ったのはそのドキュメンタリーがきっかけだった。自身も病気の身でありながら、献身的に水俣病の方のために活動している姿に心打たれた。

水俣旅行2日目の夜、懇親会の席で、加賀田さんと「(一社)きぼう・未来・水俣」・代表理事の加藤タケ子さんと話をすることができた。ドキュメンタリー撮影の状況(石牟礼道子の訪問を知っていたわけではなく、たまたま居合わせただけだという)や今後の活動のことなどを聞くことができた。加賀田さんは福島のことを気にかけ、福島に関するニュースを見ていることを話していた、「誰か気にかけている人がいる」ということの大切さを石牟礼道子は説いていたが、加賀田清子さんは人と人との出会い、「絆」、「親しみ」というものを大切にしている方であることをお会いして実感した。

3. 水俣を訪れて感じたこと

 『苦界浄土』の著者がどのような思いで水俣病患者と接し言葉を紡いでいったのかということを、著者と面識があり、ゆかりのある人たちと交流することで、作品の理解がより深まり、作品の価値を再発見することができた。また、加賀田清子さんをはじめとして、水俣で出会った方々はどの方も、明るく、朗らかで、明晰な人たちという印象だった。水俣という土地と向き合い、病気と向き合い、チッソという企業や国、行政と向き合い、そこから生まれた思考の大きさに圧倒されることが度々あった。

水俣に行く前は、震災について「もう14年も経った」という思いが強くあったが、水俣に来訪して様々な方と話をしていくうちに、「まだ14年しか経っていないのか」という思いも同時に持つようになった。水俣と福島の共通項は、「命」よりも「経済」を優先した結果、人間の業が引き起こした災害だと考える。水俣に関わってきた方々は、福島の原発事故を見たときに、国や企業の振る舞いの「変わらなさ」に愕然としたのだろう。水俣の方々がどのように国や企業と向き合っていったかを知ることは、福島に住む我々が置かれている状況や、今後すべきことを明確にしてくれるだろうことを改めて思った。

Writer Junichi saito  (researcher in philosophy)
ライター/斎藤純一(福島県立高校・教員/国語科)

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