
原爆マグロとエコパーク埋立地に眠る魚/S.A.(エチカ福島)
南相馬在住の民俗学者、川島秀一氏から聞いた話が思い出された。
ビキニ環礁原爆実験当時、被爆した漁船は第五福竜丸だけではない、危険区域内で操業した漁船は漁獲物の廃棄を余儀なくされた。
いわゆる原爆マグロである。
海中に投棄され、ゆらゆらと揺れながら落ちていくマグロを見つめて、漁師はこう嘆き憤った。
俺たちは人が食うために魚を獲っているんだ。捨てるために獲ったんじゃない。
人は生きるために食べなければならない。人の命をつなぐために魚の命を獲る。これが漁師の矜持であり、誇りなのだ。
水俣市内のフィールドワークでは、エコパーク水俣も案内してもらった。エコパーク水俣は汚染された水俣湾の再生のために造られた埋立地である。汚染された海底の泥を掬い取り埋め立てていった。
埋められたのは汚泥だけではない。汚染された大量の魚がドラム缶に詰められ埋められている。当時の水俣の漁師は、魚を埋めるために漁をすることになった。
食べることを目的としない漁。
捕まえて埋めるための漁。
どれほど、つらい仕事だっただろうか。
コンクリートで固められ埋められた魚たちは土に還ることもできない。なんとも罪深いことだ。
エコパークには様々な市民が良い関係を築くことを目的とした「実生の森」がある。“もやい直し”の森だ。植えられた当時の苗木は、今は大きな樹木となっている。
夢想する。
せめて、実生の森の木々たちが根を伸ばして魚たちを優しく包んではくれないだろうか。
いつの日か魚たちは赦してくれるだろうか。
2025年8月9日午後。市内フィールドワークに続いて相思社へ訪問。相思社は街場から少し離れた高台にあった。
車を停めてから、少し坂道を歩いて登らなければならない。子どもの頃、暑い日にこうして誰かと山道を登ったような曖昧な記憶が思い出される。汗ばむほどではないが、まだかなと思う頃、家屋の前に着く。
昭和で時が止まっているかのような何の飾り気もない古い建物。思わず「ここなの?」と友人に尋ねてしまう。
ここが相思社だった。
イメージしていた佇まいとはだいぶ違っていたが、どことなく懐かしさを感じる。祭壇のある広い畳の部屋に通され、車座に腰を下ろす。開放された戸口から風が入り心地よい。エアコンがないことが気にならない。“昔はこうだったなあ”と、エアコンなんてなかった、なぜだか、しきりに子供の頃を思い出す。
子供の頃は、こんな空気のなかで生きていた。
永野三智さんは、水俣病の問題が現在進行形であることを語った。
確かな怒りを込めた三智さんの言葉は、聞いている者を遠慮なく揺さぶる。ゆるぎない怒りと支援者への深い慈しみが伝わる。併設されている水俣病歴史考証館では、さらに揺さぶられる。
重みのある展示物の中で、とげのようにチクチクといつまでも心に刺さるのが猫小屋である。実験で死んでいった、殺されていった猫たちの小屋だ。
ごめんなさい。僕は、小屋に向けて手を合わせた。
その夜、水俣市街地の居酒屋「がんぞ~」で懇親会が開かれた。胎児性水俣病の方々、川本愛一郎さん始め介護職の方々が20人ほど集まってくれた。にぎやかで楽しい会となった。
初めて食べた水俣の魚はとてもおいしかった。よく噛んで味わって食べた。食べた魚は、血となって肉となって僕の命を支えてくれる。
Writer S.A. (Primary School Teacher in Fukushima)
ライター/エチカ福島 S.A.(福島県公立小学校教諭)
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