
もやい直しと流しソーメン、そして、おわりに/S.A.(エチカ福島)
2025年8月10日、午前に、緒方正実さんの話をお聞きする。緊張していた。自分は正実さんの話を聞くに値する人間なのだろうかという思いが、緊張を誘う。
いざ、講話が始まると正実さんの落ち着いた語り口に引き込まれた。
正実さんは、“人”について語っている。人の心は人で動く、人でしか動かないと諭されたように思えた。人としての生き方はどうあるべきかと深いところから問われたように感じた。
“福島の原発事故・放射能の問題は人権問題だ。私たちはこの意識をもっと強く持つべきだ。”と語った先輩の言葉が重なった。人としての当たり前の生活を奪ってしまうのは、誰なのだろう、なぜなのだろう。人として当たり前の尊重を欠いてしまうのは、誰なのだろう、なぜなのだろう。このことは、常に自分を省みながら考え続けていかなければならない。正実さんの言葉を反芻しながら。
暗雲が垂れ込め蕭々と雨が降るなか、車は山道を分け入った。向かうは、寒川水源亭。お昼に「流しソーメン」を食すという。生まれて初めての流しソーメンだ。興味は尽きない。
道はますます険しくなり、雨はいよいよ本降りとなった。うっそうとした杉林の渓流沿いに店舗があった。外壁のない造りは、周りの自然を楽しみながら食事ができる空間となっている。晴れていればこその開放感も、この天気だと恨めしい。
さて、テーブルにはミニ版の流れるプールが設置されている。そこに麺を泳がせての流しソーメンだ。箸ですくって食べてみるとおいしい。止まらない。子供だましと思いきや、麺の適温と触感を維持できる合理的なシステムだ。侮れない。川魚の塩焼きもフワフワでおいしく、山の幸を堪能した。なんだ、雨の山も風情があっていいではないか。
水俣は海だけじゃなかった、豊かな山もある。水俣は山もおいしかった。海の幸と山の幸。水俣は恵まれた豊かな土地なのだと気づかされた。コーディネータの石原明子さんの掌で踊らされているかのようだ。
午後のプログラムは、「もやい直し」がテーマとなる。
「今日の日を市民みんなが心を寄せ合うもやい直しもやい直しの始まりの日と致します。」
上記は、1994年 水俣病犠牲者慰霊式における吉井正澄市長の式辞から引用の一文である。この時から「もやい直し」という言葉は、もとの意味から羽ばたいた。
行政側の「もやい直し」の担い手である松本木幸蔵さんと吉本哲郎さんのお話を聞く。吉本さんの「行政参加」という言葉が印象深い。水俣の地域再生「もやい直し」は市民の動きに行政が後押しするという構造のようだ。地方行政の末端で働くものとして、行政が後追いすることのややこしさや難しさは想像に難くない。人材を初め、それを実現しうる条件が、当時の水俣にそろったということなのだと自分なりに合点した。もちろん「もやい直し」も魔法の処方箋ではない。地域再生は、よそ者が安易に口出しできるような生やしいものではない。
だから、水俣では、自然と人間の「もやい直し」によって、おいしい料理に行きついたなんて発想は、よそ者の浅慮と自覚しよう。水俣でも福島でも自然は、そう簡単に人間のもやい直しの呼びかけに応じてはくれない。
水俣の雨は断続的に降り続いている。
おわりに
昭和30年代、水俣の多くの人が目の前の海で獲った魚を食べて水俣病になった。昔からずっと食べてきた、安全であることを疑いもしない魚を食べてひどい病気になった。
人と魚、人と海、人と自然、互いの存在は互いの一部であり、切り離すことはできない。
水俣病はそれを断ち切った。切り離すことのできないつながりを断ち切った。その罪の大きさに暗澹たる気持ちになる。
そして、数十年後、この大罪は、福島で繰り返される。
福島でも“安心して食べる”という余りにも根源的で当たり前のことを不条理に奪われる。キノコや山菜はもう今までのように食べられない。農産物や海産物の受けた被害は計り知れない。
今回の水俣の旅で、3.11の福島を改めて思い出している。
当時、福島では食どころか飲み水も空気さえもその安全を犯された。学校では、給食どころか、清掃活動や校庭に出ること、窓を開けることも制限されていた。まるでSF映画のディストピアのような状況であったことに今更ながら震撼する。
福島では今でも学校給食の放射性物質検査をしている。
水俣では市民の声によって、百間排水溝を歴史的遺構として残すことになった。
隆文さんは“水俣病”という呼称を変更せよという立て看板に対し、水俣病から水俣をとったら水俣で何が起きたか忘れられてしまうと語った。
三智さんは、著書で“何をもって水俣病の解決とするのか”と問いかけている。
3.11後の福島で生じた出来事のほとんどは、先に水俣が経験していた。しかし、残念なことに、その経験をいち早く、上手に生かしたのは体制側だった。
水俣巡検を終え、今は、振出しに戻ってきたような感覚になっている。水俣をめぐって福島に戻ってきた。水俣にいる間、しきりに福島を思い出していた。
3,11で止まっていた時計が再び動き出したのだろうか。やっと、スタート地点に立ったのだ。
Writer S.A. (Primary School Teacher in Fukushima)
ライター/エチカ福島 S.A.(福島県公立小学校教諭)
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