水俣で子供を生んでみた・育ててみた1:妊娠・出産編/石原明子

 私が最初の子を授かったのは、45歳の夏の入口。子どもが欲しいと望み続けた先に、奇跡を越えてやってきてくれた子だった。子供の父親は東北在住、私は熊本で仕事をしていて水俣在住。自分の親はすべて他界して、私自身は子供を生んだことも育てたこともない、それを見たこともない、何もわからない、頼る親戚もいない中での出産と最初の子育てとなった。

 仕事が熊本市内であったこともあり、以前の妊娠・流産のときにオピニオンをもらってお世話になった熊本日赤(熊本市内)で妊娠経過をフォローしてもらっていた。高齢出産で、ただでさえハイリスクの妊婦ではあったが、初めて、そして最後になるかもしれない出産という体験をできるだけ楽しみたいという欲もあった。より自然な出産をサポートしてくれているという水俣在住の助産師の方が務める「さんさん助産院」(鹿児島県出水市)にも、並行してお世話になった。

 水俣市在住の助産師の大橋先生は素晴らしい人で、妊娠と出産の素晴らしさと恐ろしさを熟知したひとだった。より自然な出産と子育てをサポートしながらも、形式的にそれを押し付けることはなく、とにかく命が一番大切ということを原則に、それぞれの年齢や体調や環境に適した形で、できるだけお産と子育てが幸せなものになるようにサポートしておられた。

 出産が近づくと、どこで産むのか、という話になる。日赤では、水俣に住んでいるならば、水俣で産気づいたときにすぐ産めるように水俣で産んだらよいのではないかという提案も受けて、30週を過ぎてから一度水俣総合医療センターの産婦人科も受診した。しかしそこの医師からは、診療時間30分のすべてをかけて、きわめて熱心に「いかに水俣の病院で産もうと考えてはいけない(=熊本市内で産むように)」ということを説得された。言うに、“自分たちの病院では45歳などという高齢の妊婦を見たことがなく、何かがあったらここでは緊急帝王切開ができないから、八代市か熊本市に搬送になるのだから、最初から熊本市内の病院にしがみつくように”という趣旨だった。背景としては麻酔科医不足で、熊本市内に在住の麻酔科医にも頼っているので、緊急に対応できない、ということがあるということであった(医療政策的には、緊急帝王切開ができないならば、病院として産科を続ける要件を備えないのではないか、という意見もあるが、これが地方の現状である)。

 35週で、私は妊娠高血圧を発症し、熊本日赤に入院となり、数日後に出産となった。日赤で無事に出産をして、産後に子供抱えて荷物もって一人では水俣まで戻れないということで、水俣の友人に100キロの道のりを車で迎えてきてもらった。友人も、新生児を乗せての運転、ドキドキだったに違いない。こうして、水俣の友人たちに300%守られての子育てが始まった。

Writer Akiko Ishihara
ライター/石原明子
東京生まれ。水俣で、娘を育ててながら、熊本大学で教員として働く。「対立や葛藤から未来を拓く」紛争解決学が専門で、水俣や福島の人々の葛藤と再生、そこから紡がれる未来への示唆の研究をしている。
Born in Tokyo. I am raising my daughter in Minamata, working as a teacher at Kumamoto University.
Opening Up the Future from Conflict and Conflict, specializing in conflict resolution studies.
Researching focuses on the conflicts and rebirths of the people of Minamata and Fukushima,
and the implications for the future that can be drawn from them.

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